武道で内面を鍛える

武道の稽古では恐怖心を感じる事が多々ある。恐怖心とは情報不足や技術不足、経験不足等から起こるものや、心理的な脅威、苦手意識や、人から試されていると感じ、それに対して自分が期待する結果を出せないもしくは、自己が期待する判断基準以外での判断を下されると予測できる場合の心理的負担など、至る所に恐怖心が発生し得る。もちろん、それと向き合うことなく、環境を整えたり、技術を向上させ、その問題を根本解決せずに、対処する事も可能であるのだが、対処療法的に一旦乗り越えたとしても、また別の切り口、別の段階で、向き合わなかった要素に起因した問題が何度も繰り返し訪れる物であると、私は経験的に捉えている。

更に要素を加えて言えば、武道を行う主体である自分は、日常を送る自分や、仕事をする自分、家族や友人等と対峙する自分と分かれている様でいて、その全てが全く別人のように知識や経験、価値観が変更出来る人は稀である。で有るとするならば、武道で根幹的な感覚や、反応や、対処法や価値観が変容できれば、それは変わり難い日常や仕事や、家族等への自分の在り方の基準や感覚の緩やかな変化を武道の稽古が促してくれると私は確信している。

その中でも、初めに挙げた恐怖心と言う物は、生物としての自分の判断基準の根幹を担っている大きな要素の一つであり、武道と言う現代においては実学としての価値を大きく減退した分野であっても、主体である自分の感じる恐怖心と真摯に向き合う事、その様な目線を持って長期にわたり稽古に努める事で、武道での恐怖による差しさわりはもちろん、変化し辛い自分の生活を支える分野や、自分が実学的価値や心理的価値、もしくは自分にとって執着が強く感情が強く働いてしまう分野も含めて多方面での影響が期待できる。

とは言え武道の武道たる根幹は技術やその効果を以ってしか表現しえないのも確かであり、自己の変容と言う物は武道に真摯に向き合った結果、得られるものであるという感覚は必要であると私は思う。武道を稽古すれば己を磨けるのではなく、己を磨かなければならない程真剣に武道に打ち込むことで、その様な効果が確実に出るのであって、何となくやってみたら自分が変わった気がするというのは、他の分野での変容までは期待し切れるものでは無い。もちろん、その様な事も起こりうるが個人の経験、資質に左右され、確たるものでは無い。

逆に個人の変容に焦点を当て、変化したとしても、それによって武道の実技や判断が変化しない、もしくは、武道では通用しない変化の仕方で有れば、それは武道的な変容とは言い難い。